色のチカラを味方につけて私がどう変わっていったか3~第9回大分仕事フェスタ登壇します~

最悪期の到来

「3年住んで引っ越し。転勤族ってこういうことか、、、」
と実感した、初の転勤先札幌の次の引っ越し。いろいろと慣れてきて、少しは友達が出来て、周りの環境や土地勘も着いてきて、さぁ、これからだ!というタイミングで離れないといけない。心の準備が全く出来てなかった私は、かなり戸惑いました。けれど、離れないといけない、行かないといけない。次は、もちろん住んだこともなく友達も知合いもいないところ、栃木県でした。

基本的には、未来にを希望を持つタイプなので、次はきっといいことあるだろう!と期待して引っ越ししました。札幌では、割と新しくて綺麗なマンションだったのが、次はボロボロのすごいマンション。これしか条件に合うのが見つからなかったんですよね。それでも、新生活に期待を持っていました。

転勤してしてここにやってきた方の集まるグループに参加してみたり、国際ボランティアの集いに参加してみたり、もちろん札幌で始めたバイオリンの教室にも行ってみたり、いろいろと動いてみました。
気が付く方もいらっしゃるかと思いますが、仕事の類がないですよね?そうなんです、希望の仕事が全くありませんでした。ここも札幌と同じ状況、いや、人口が少ないだけに悪化してました。今は状況も違うかもしれませんが、当時私が感じた印象はこうでした。
今度こそ、結婚前のように活躍出来る!だって、違う場所になるんだから。本州なんだから。と期待していただけに、落胆は想像以上でした。そして私にはまだ、何でもいいから働こう!と思えるほどの気楽さを持つ、心の余裕がありませんでした。

偏頭痛、婦人科の不調に悩まされる日々

「仕事はもうあきらめよう!」そう決めて、習い事やいろんな集まりに出ることにしました。なぜなら、偏頭痛で動けない日がどんどん増えていき、働くということは無理だ、となっていたからです。

偏頭痛は、それまで経験したことがない酷いものでした。頭痛外来にも通院しましたが、これだという薬がないんですよね。いろんな薬を処方され、飲んでみたんですが、どれも大差ない感じでした。今はすっかり良くなったので、当時の状況のようなことになることはないのですが、当時は、頭をちょっと動かすだけで、頭が割れるような激痛が走り、じゃあ、寝ておとなしくしていればいいのかっていうと、それでも頭はガンガンしていてどうしようもない。頭を動かしたときに生じる激痛がないだけましですが、薬も効かず、兎に角辛い日々でした。

婦人科系の痛みも、ひどくなり、頭痛と合わせて寝たきりの日が増えていきました。

なので、仕事をしたら体調不良でシフトに穴を開けることは間違いなく、勤め先の方に迷惑をかけるだけの状態にあるのは分かり切ってました。というわけで、起き上がることが出来ず、引きこもっている日が増えてきました。なんとか頑張って楽しみを見つけよう、友達が出来たら楽しくなるかもしれない、と、体調の良い時は、習い事や集まりになるべく出るようにしました。
そのおかげで、天然酵母のパン教室は最後まで習えましたし、手打ちパスタのコースも終了しました。そして、中国語にも挑戦して、結局落ちましたけど2級までチャレンジ出来るくらい勉強出来ましたし、書道も師範まで取れました。国際ボランティアの勉強も少し出来ました。この時は、勉強が生きがいでした。

外に出て習い事をしても、なかなか友達が出来ませんでした。子供がいないと、子供つながりの関係もなく、子供の話題にもついていけず、同世代の友達を作るのはなかなか難しかったんです。
そして、唯一の子供がまだいない主婦のグループのつながりがありましたが、そこでも自分と彼女たちを比べて常に落ち込んでました。みんな私よりずっと幸せそうで楽しそうに見えたんです。どうせ、私は3年たったら居なくなるヒト。仲良くしてもらえるわけもないし、うわべだけの付き合いに過ぎない。学生時代の友達とネットでやり取りをすれば、また「私なにやってんだろう・・と落ち込むだけ」彼女たちとも疎遠になっていきます。

当時の私の唯一の友達は、国際文通をしていた各国のペンパルでした。今どき国際文通?と思われるかと思いますが、中学生の時に初めてインド人の男の子と文通を始めて以来、ほそぼそと続いていた趣味でした。私が惹かれたのは、手紙というアナログな世界の持つ魅力。万年筆で手書きで手紙を書き、長い時間と距離を経て届くということ。異文化の図柄の切手やそれに書かれた異国の文字は、海外の文化や言語、文字をこよなく愛する私にとって、かけがえのない素敵な世界でした。

それに、体調も気分も優れなくて、狭いマンションの1室から出られない私にとって、気持ちだけでも外に羽ばたいていける唯一の手段でした。もちろんネット環境にありましたし、そちらの方がよほど手軽でしたが、手書きでつづられた何枚にも渡る便せんに、渇望していた愛情や友情を感じていたんです。そして、誰にも話せない心の悩みや辛いことを吐露出来るのは、ペンパルたちにだけでした。心配をかけないようにと、辛い自分や悲しい自分は外に見せちゃいけない、と常に張り詰めた状態で頑張っていましたから・・・

住んでいたのは10階建てのマンション。どん底まで滅入ってボンヤリと下を見下ろして「ここで飛び降りたら駐車場にいろいろ飛び散るから迷惑かけるよな・・」とか、思う日も増えてきました。死ぬ勇気まで持てない自分を情けなく思い、そうかと言って、生きていく意味を全く感じられず、何のために生きているのか、分からない日々。現実の世界では、相変わらず誰にも相談出来ず、親にも心配かけるから、と、「元気でやってるから大丈夫」と強がり、ボロボロの心と身体で日々過ごしていました。将来に何か希望があるわけでもなく、先が見えない(見ようとすることすら出来ない)自分に、何をどうしていいのか、何をしたいのか、それすら分からない暗闇の状態でした。

最大の自己否定をする日々

生きながら生きることを、つまり、自分自身を拒否してしまう病気とは、何だと思いますか
ー摂食障害です。
食べることは、生き物にとって必須な事です。それを拒否したりコントロールしようとして、自分の生死を天秤にかける。摂食障害とは、実はそういう恐ろしい心の病気です。
リストカットなどの自傷行為と似ているような気がしますが、根本的なところで違うんじゃないか?と感じています。なぜなら私は自傷行為には至らなかったからです。見た目で分かる肉体を傷つけるのは、また違う意味での心の病気だと思います。

そうです、肉体の鼓動を止める勇気がない私は、精神から自分をコントロールして自分を痛めつけて、殺そうとしていたんです。このことを考えると、今でも涙が止まらなくなりますが、本当に辛い時期でした。経験したことのない方には、全く理解不可能だと先日知りました。ですので、実際に経験した方でないと、この辛さや心の痛み、抜け出せないことへのもがき、普通の人間に戻れたけど戻れない辛さ、人に相談出来ない孤独感、つのる自己否定、生きることへの絶望など、理解は難しいと思います。そして、意志が強くないとこの病気にはかかりません。生真面目で、自分で問題解決をしようと頑張りすぎてしまう、そんな人が陥ってしまう泥沼です。

食べているときは、何も考えず頭を空っぽにして無心で居られる。満腹は幸せではなく、恐怖の始まりでもあると分かっていても、とにかく現実から逃避出来るたった一つの私が取れる行動でした。そして、食べていないときは、自分が清らかな生物になれた気持ちになれるとき。なぜなら食べものは、生きるためのものではなく、私も醜くするだけのものですから。そのまま餓死してしまえば、自分は清らかで死ねる、そう思うのですが、脳は生存させようとします。その葛藤が始まるのが泥沼の始まりなんです。一度陥ってしまうと、そう簡単に這い上がれない。自分を愛せるようにならない限り、永遠に自己否定をし続けてしまう。

さらに外で人と接するのはおろか、電話を掛けるのすら、掛かってきた電話を取るのですら怖くなります。あんなに人と接することが好きで、接客業を選んでいた私が、人と話すことが怖くて怖くてたまらなくなりました。そして、誰とも話さない日々が当たり前になり、当然、身なり、服装、お化粧なんかには構わなくなります。こんな私を、誰もが笑っていると思ってましたし、数少ない友達となった人からも、悪口を言われていると思っていました。今考えると、そんなことあるわけないのですが、自分に自信どころか価値を見出せなくなり、被害妄想が段々と大きくなっていきます。そして、このまま何となく年を取って死ぬしかないんだな、と思うようになっていきました。

醜い自分は価値がない、そう思うことから、醜くない自分を目指します。醜くない自分って何でしょう?当時の選択は、おしゃれでキレイで素敵な自分ではありません。痩せている自分です。若いころからメディアに刷り込まれていたせいでしょうか?太っていることは醜い事だと、いつの間にか信じるようになりました。つまり、女性らしい体つきを否定するようになり、女性であることを否定するようになりました。無意識のうちに中性的になろうとしていた気がします。自分をコントロール出来ないような弱い人間の象徴が、ぜい肉のついた肉体として現れる。だとしたら、中性的でいろんなものがそぎ落とされた状態こそが清らかで醜くない、そうじゃないと生きている価値がない。女性として魅力的な部分を否定していきます。女性らしく生きられないと自分で決めつけた後の選択は、女性らしくなくすること。それしかなかったんです。スカートを履くことも、黒色以外の洋服を着ることもなくなりました。

今は克服出来ましたので、こうやって振り返ることも出来ますし、こんな風に公開してみよう、と勇気を出して思えるようになりましたが、それまでは、恥ずかしくて、情けなくて、ひた隠しにするしかない、ことでした。ひた隠しにして、私は普通よ、どこもおかしくないし、正常だし、大丈夫よ。と振舞うことで、精神の均衡が保てていた気がします。

そんな中、それはいきなりやってきました。そうです、3月11日。東日本大震災です。福島のすぐ下の県である栃木県は、かなり揺れました。それに、原発がどうなるんだろう?放射能はどう影響するんだろう?と恐ろしく暗い日々への幕開けでした。

地震の後の当時の台所です。おんぼろマンションの10階でしたから、揺れはすごくて、台所の冷蔵庫も倒れ、中のもの床に散乱。牛乳などの飲み物も全部こぼれ、池が出来ていました。いろんな物が割れ、ゴジラが通った後ってこんな感じ?みたいな状態で、猫が圧死してないか、それだけが心配でした。呼んでも探しても出てこない。掃除が進むにつれ、猫の死体もないのでどこかに隠れているんだろう、と思え安心出来てきました。

そしてそれは、奇しくも、次の転勤先の内示が出た直後でした。

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色のチカラを味方につけて私がどう変わっていったか4

 

 

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