色のチカラを味方につけて私がどう変わっていったか4~第9回大分仕事フェスタ登壇します~
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色のチカラを味方につけて私がどう変わっていったか~3 第9回大分仕事フェスタ登壇します~
今度こそ、きっと!
震災の直前に出た内示での、次の赴任地は「小倉」。あの状態でどう手配したのかあまり覚えてませんが、飛行機を手配し、次の赴任地での住まいを探しに行きました。降り立った九州の第一印象は、「明るい!」でした。夜に電気がついている!自販機の電気がついている!コンビニに商品がある!パンがある!なんといっても、雰囲気が明るい。計画停電をし、常に暗い状態の栃木とは全く違う世界。震災なんてあったの?と錯覚してしまうくらいで、同じ日本なのに、こうも違うものか・・・と驚きました。
初めての九州。引っ越ししてすぐ実家の両親が手伝いに来てくれました。毎回の引っ越しでは、両親が手伝いに来てくれていました。連日歓迎会の日々の夫とは、顔を合わせるのも数時間のみ。手伝ってくれる両親は、心細い私にとって、とても頼もしい存在でした。
新天地の九州。明るい雰囲気。人口も以前の都市よりずっと多い。今度こそ、きっと!そう思ったのを覚えています。でも、両親が帰ってしまい、一人の生活が始まると、また前の時のようになっていってしまいました。以前のように通い慣れた病院も良くわからない、人と会うのが怖い私は、また引きこもるようになりました。栃木時代の薬も切れそうになって来て、途方にくれるものの、やっぱり寝込んでいるしかできない私がいました。
40代近くで転勤族で特に技術もないなら、仕事は難しいですね
それでも、今度こそは働きたい!とハローワークへ行ってみて言われた言葉です。事務職の経験は、20代のOLの時のスキルのみ。その時は、パソコンの技術なんて今と比べようもありません。ワード、エクセル、アクセス、パワーポイント、派遣で設計と経理の仕事をやっていた時に、ちょこっとかじっただけ。貿易実務もちょっと補助をしただけ。特にこれが出来る!ってのがない私。接客業は長かったので、自信があったんですけど、年齢的に募集している職種は限られてました。
結婚や出産前にバリバリで働いていた方でも、それから落ち着いて再就職しようとしてぶつかるのが、年齢と時代によるスキルの評価減だと思います。募集要項も年齢不問としないといけないようになって久しいはずですが、表向きは男女、年齢によるふるい分けはないように書いてあっても、実情はそれがはびこっている。本音と建て前は違う。就活をするたびに実感します。もちろん、私に雇ってもらえるようなスキルがないのが大きな原因なんですが、でも、これって私だけでしょうか?結婚、出産、育児、介護、家族の事情のために、スキルを諦めるのはいつも大体女性。それに対しての仕打ちにしては、酷くないでしょうか?そんな風にも思えるようになってきました。
迎えた40歳。私、このままでいいの?浮かんでは消える焦燥感
そうして40歳の誕生日を迎えます。この時に、「人生の半分が終わったよね。私、このままでいいの?どうせなら、最後の時に「私の人生これでよかったって思って息を引き取りたい」」と思うようになります。その思いは、日々強くなっていきます。
「でも、どうしたらいいか分からない。」「何をしていいか分からない。」そんな状況が続きました。「私は何がしたいんだろう?」「何をするために産まれてきたんだろう?」常にこの考えは、頭の中で巡ります。
相変わらず、人との距離感がつかめず、八方美人で自分を殺し、生きながらも、常にそれを考えていました。
そんな時、通っていた図書館でふと、「マクロビオティック」について書かれた本を手に取ります。「食生活を変えたら、何かが変わるかもしれない。」と、物は試しでやり始めました。もともと、身体の中が汚れることについては、異常なほどの恐怖を持っていましたから、食べていいもの、食べていけないもの、と明確に線引きをしていました。食べていいものだけなら、お腹いっぱい食べても怖くないし、健康にキレイになれるに違いない。そこから、どんどんのめりこんでいきました。それに、ドナドナに出てくるような仔牛を目にしたことも、傾倒していくきっかけになりました。栃木時代に運動すれば変わるかも?と始めてみたランニング。その道中に屠殺場があり、ほぼ毎朝、仔牛がつながれているのを目にしていました。あの子を食べるのは、罪じゃないんだろうか?命を奪って食べることは許されることなんだろうか?と考えていた時期でもあったからです。
それまでは、食べること=恐怖 でしかなかったのですが、何十年かぶりに「お腹いっぱい食べること」が出来ました。お腹いっぱい食べても、体重や体形に変化がないと実感出来て安心出来たんです。そして、食べることにより、さらに体内からキレイになっていっている、という充実感もありました。
そうしていたら、知らないうちに、それまで浴びるように食べて吐いていた「食べてはいけないもの」のジャンクフード、菓子パン、お菓子、コンビニの食品、お惣菜(特に揚げ物)が、まずくて食べられらなくなっていったんです。それまでなら気にならなかった、添加物の味、合成の味、偽物の味、そういうものがまずくて気持ち悪くて仕方ない。天然素材の調味料や、素材にこだわって自炊をしていたら、自然とそうなりました。そうして、高校時代からずっと悩まされていた摂食障害からさようなら出来ました。
健康な心は健康的な身体から出来ている
食べることが正常になると、心もちも変わってきました。病的にネガティブだった発想、考え方が、普通にネガティブくらいまで変わって来たんです。
当時、私の心の支えとなったのは、弦楽アンサンブルとレッスンでした。私の事を気にかけてくださる方、かわいがってくださる方が何名もいらっしゃり、この活動が生活の、気持ちの大きな部分を占めていました。札幌時代にバイオリンから始めた楽器ですが、やっていてよかった、といつも思ったものですし、今でもそれは強く思っています。
その集まりのお友達の中で、ちょっと感覚の鋭い方がいらっしゃり、転勤先が決まる直前に教えてくれた一言が、私のその後の支えとなりましたし、私を変えてくれたきっかけの一つとなりました。
「4月からもう大丈夫だから。あなたが生きがいが見つかる。そのために生きて来たといえることが見つかるから。」この一言でした。嘘くさい、胡散臭い、信じられない。そう思おうと思うなら、いくらでも思える何の根拠もない一言。でも、信じてみよう、と思いました。きっと、今度こそ自分が変われるんだ、と。
そこから私の自分探しの旅が始まりました。そして、次の引っ越し先、学生時代4年間を過ごした関東へと引っ越すことになります。
写真は、引っ越し前に土筆を積みに行ったときの写真です。モノトーンのファッションしかしてませんでしたし、いつもジーンズでした。子供のころから土筆を採りに行くのは大好きなので、嬉しそうですよね(笑)
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色のチカラを味方につけて私がどう変わっていったか5